真夜中のひとりごと。
wordpressに移動し始めて、また作業が止まっている。
どんなHPにしていこうか方向性があやふやなこともあるが、技術も知識も圧倒的に足りない上に、購入した参考書にもしばらく目を通していない。
しかも、今年の初めにログインできなくなってしまったseesaaのブログに、こないだ気まぐれでパスワード(以前試したはずの)を入力してみると、なんとログインできてしまったのである。
どわ〜嬉しいけれど、そして、どの道wordpressに移行したかったからいいんだけれど、複雑な気持ち。爆
でも、seesaaは専門学校時代の文章も残っているから(今は非公開だけど)ログインできたことにより、それも読めるのが嬉しかったので嬉しみの方が勝った。
そしてたまに自分が書いたブログを読み返していて、まず、若さというのは文章に現れるのだな、って思った。mixiでもそうだけれど過去の文章読んでると、やたらテンション高い!!!笑
でも、逆に今の文章がどう見えるのか、また見えているのかはあまり客観性を持ち合わせていないからか、よくわからない。
会ったことも無い人が私のブログを読んでくれたとしたらどう感じるんだろう?
やはり文章には当然だけれどTPOに応じて作法があるし、リズムや重量だったり、誰かの書いた文章を読んでいて心地よさを感じることだってできるし、またその逆もある。性格も思想も価値観などなど随所に滲み出るものだよな。(意図して操作しなければ自然とそうなると思う)
私は、新聞はほぼ読む習慣がないし←好きな本こそたまに読むくらいだけれど、そんな私でもウェブの新聞記事やニュース記事、エッセイなどには以前よりも読む機会は増えた。そのことによって、昔よりも世の中のことに興味を待てる様になった。
だが、新聞や書籍に比べwebで摂取している情報内容に偏りはある。ピンポイントだ。例えるならば、辞書で調べるか電子辞書で調べるかに似ていて、私は特にweb上では目的の言葉や記事を見てしまうと満足してしまうタイプで、知識があらゆる方向に伸びにくい様に感じている。
私が中学生の頃、英単語を調べると例文や探していた単語前後の文章や例文を見て、素敵な言葉を発見したりすることがあった。周りの単語や例文が視覚にとまりやすいので、予備知識が同時に手に入ったりしたのだ。
意識しないと自らの思考の枠から出られないことがよくある。
街の本屋でぶらぶらして、たまたま目に入った本のタイトルやデザインで購入してみたり、電気屋さんで家電を何気なく試してみたり。
そういうことをしていても、結局はECサイトで買ってしまったりする。
おすすめや関連のある商品などを導き出しているのは確かに便利ではあるけれど、なんだか実世界で偶然につながったりする方がより感動できた気分になれる気がしてしまう。
まぁ使い分けたらいいのだろうけど。
それでもやっぱり、どんなに素敵な本や音楽、映画をお勧めされても、手にはするものの気分が乗らないと、試してみるまでにすごく時間がかかるか先延ばしになったまま忘れ去ってしまうのだ。
つくづくなんでも行動し続ける人は尊敬するなぁ。
食わず嫌いっていうのもあるけれど、心のフィルターや固定概念を積極的に外してみたい。
きっとなんらかは発見する、面白い言葉や考え方が見つかったり、やっぱり理解できなかったり、でもそれはどの様な理由で理解ができないという答えに至っただとか。もし苦手なものが見つかったとしても、それは私が苦手なことであって誰かの好きかもしれないことを忘れてはいけない。意識しないところで決めつけてしまっている所もあるはずだから。
そして、自分と異なった意見や価値観と出会うことで、思想を更新していかないことには成長できない様に思う。
一人でこの様に考えて文章にするのは簡単だ。
もっと、色んなことを身近な人から始めて初めて会う人なんかと思想の交流をして行きたい。
そんなことを思った真夜中でございました。